一流の研究者の抜け駆け功名

stair.jpg 一流の研究者の先生と机を並べて一ヶ月半。毎日繰り返される議論にも慣れてきて、パソコンの操作や PowerPoint の作成をお手伝いしているうちに、なんだか緊張がほぐれてきて、この人がどれだけすごい研究者なのかを忘れつつありました。 そんなある日、現在私が進行中の研究についてのディスカッションをしてもらっていたときのことです。

私「…とまあ、こんな結論にしておこうと思うんです」 先生「それもいいですが、こちらの結果も野心的でいいじゃないですか。論文に入れないのですか」 私(ぎくっ)「そ、そちらはちょっと怪しいというか、あまり言われていない話なので…」

その部分は自分でも気づいてはいたのですが、提示した資料からは言い過ぎではないのかと思って結論には含めなかったものでした。先生はちょっとの会話でそれを的確に見抜いて突いてきたのでした。そしていかにも不満そうに付け加えました。

「mehori さん。日本人は抜け駆け功名というんですか、あれがなくていかんですな」

この先生は戦後からまだそれほど経っていないころに渡米し、以来一つの学問分野をほとんど独力で作り上げたという人物でした。私もその分野の端くれではあ りますが、その分野において大事な仕事はすべて数十年前に先生がすでに先鞭を付けているというのですから、恐ろしい話です。

しかしその仕事も最初から好調だったわけではなく、最初の10年はまだ多くの人が手を付けていないそのニッチ分野において奮闘する日々だったそうです。そ してそのニッチにおいてやるべき仕事を次から次へと論文として発表してゆくのでした。どうしてそんなに多作なのかと質問してみると、ちょっとずれた、でも 深い答えが返ってきました。

「私は他の秀才の人よりも考える能力が弱かったです。でもしつこかったんですな。いつまでも一つのことを考えてばかりいると、頭のいい人がすぐに理解してしまったことでも、実はそれほど単純ではないのだということが、人より10倍も時間がかかってわかってきたりするのです」

先生の驚くべき生産力をこうした言葉の数々から総合してみると、それは以下のようにまとめられそうです。

  • 本当に大事なニッチを考えに考えて探してゆく:誰も大事だと思わないような無用なニッチに自分を追い詰めていくのではなく、大事なニッチを探してゆく。人間のやることにはかならず穴があるので、必死で探せばかならずそれはある。

  • 自分のもっているニッチを絶対に渡してはいけない:そのニッチを守れるかどうかが、自分の competitive edge。ニッチを埋め尽くす勢いで絶対に手を揺るめてはいけない。

  • 難行苦行をしない:ふつうにしつこくやっていれば、時には時代を先駆けるアイディアの一つや二つがわいてくる。それを「もっと準備してから」だとか、「もっとちゃんとした形で発表したい」などと努力しすぎてタイミングを逸してしまうのではなく、すぐに形にして公表すること。

  • 周囲の賛同を待たずに先に手を付けてしまう:「こんなことをしても人は認めてくれるか?」などと考えているうちに、他の人が追いついてしまう。たとえ問題がありそうでも、周囲からから非難されそうでも、とりあえず手を出してしまう。

  • 抜け駆けを目指す:Imitation is the most sincere form of flattery, 「模倣は最上の賛辞」というように、本当に素晴らしいアイディアなら他人が何もいわずに模倣してくれる。模倣する側になってはいけない。最初は馬鹿にされ ても最初であることを目指す。

この四番目と五番目は、精神的にはかなりきついものだと想像できますが、現実の「競争」としては一番楽で重要なスタンスなのだというこ とです。というのは、流行していたり、重要だと賛同が得られているマーケットは当然競争が激しいですので、何かをやろうとしてもすでに他人がやっているこ とが多くて、思い通りにいかないからです。それよりは勇気を持って、舞台が移ろうとするその先に自分の釣り糸をたれ下げておくことで、結果的には労せずし て功名を独り占めすべきだという話です。

ビジネスの世界では常識でもある「ニッチを攻めろ」という考え方がこんな大学者の中にも息づいているというのは、目からうろこがおちる思いでした。今までニッチというのは重箱の隅の方に自分を追い詰めてゆく考え方かと思っていましたが、先生の考え方は逆で、誰もが見落としている大事なものが絶対にある、というものでした。先生の考える能力が弱いというのは嘘だと思いますが、一つのことをしつこく考えているうちに、そうした自分のニッチに行き着けるのなら、やってみる価値はありそうです。

しかし周囲の賛同を得ないで何かことを起こすと、日本であれアメリカであれ、抵抗勢力はでてくるものだと先生は注意します。それに耳を貸さないのも練習次第なのだそうです。

「ひとはもう無責任にこちらをこき下ろします、それはもう私などは一生こき下ろされてきました!」

しかしですな、と先生は続けます。すでにもう幾多の合戦に勝利してきた功名頭の満面の笑みです。

「他人がこき下ろしたからといって、自分がその通りにおちるわけではないですから!」

はいはい、というわけで次の論文には物議をかもしそうな一行が加わることになりました。やるしかないなら、やってみましょう。

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。