読まれることが至上でも、そこで言葉の刃をとるのか、木を植えるのか

物事には二面性がよく存在します。ある面で正しいことが別では間違っていたり、ある目的のために必然であったことがのちに躓きの石となって自分を転ばせることもしばしばです。

昨日、オンライン開催された「ライター100人カイギ」のブレイクアウトセッションで、私が聞き損ねたのでなければうけた質問も、そうした難しい選択についてのものでした。

それはブログ記事やライターとしての記事を書く際に、「インパクトを与えるように書くのか、それとも読者に読んでもらいたい、伝えたいと思うものについて書くのかの相克」という内容の質問でした。

これはもちろん、ブログであれ、媒体記事であれ、依頼して書いている原稿であれ、寄稿であれ、書かれている内容とリーチの二重性からくる問題でもあるのです。

インパクトを与えることは正義

もし私がライターとして、原稿を依頼してくださったクライアントのために、あるいは媒体のために書いているならば、私に与えられた責任は記事の内容そのものだけでなく、記事によって反響を得ることでもあります。

記事に反響があるから二つは同じものと思われがちですが、これは重なり合いながら互いに異なる力学をもった二重の問題です。記事の内容が性格で的を得ているかと重なり合った、それをどのように語るかです。

私は考えます。タイトルだけでバズらせるためにどのようなキーワードをいれればよいのかと。

致命的でないほどに毒をもった鋭い言葉をいれ、そう、「○○を知らない人が迎える末路」などはいいかもしれない。適度に読者の不安を掻き立て、記事の内容が透かし見られないように曖昧にすべきところは曖昧にし、クリックを誘発した先でその不安に対してあり得る解答を並べて、読者に満足を与える書き方。

私にはそれができます。道筋は見えているのですから。

異論はあるかもしれませんが、クリックしてもらえなければスタートラインにつくことさえできないウェブの記事の書き方としてはこれは正当な一手段です。掻き立てるものが不安であっても、好奇心であっても、ツッコミ待ちへの期待でも、鋭い批判の言葉でも、なんでもかまいません。

とても古い話題ですが、1955年の「第一次主婦論争」という女性の社会参加を問いかける論争のなかで、梅棹忠夫は「妻無用論」という、いま目にしても切れ味の鋭い題名の論説で参戦して話題をさらいました。

「知的生産の技術」においても「アジテーション」を旨としている先生らしく、この題名はその後に大論争が沸き起こることを百も承知でタイトルを付けている様子が見て取れます。

アジテーションのすべてが良いわけではありませんが、外したり失敗することを恐れていたのでは、刺さるタイトルは付けられないということでもあるのです。

しかし言葉はその後もずっと残る

しかし、私は同時に考えます。「末路」という言葉を使うことは、たとえばいま現実に病をえて不安に思っていたり、言葉が刃になって向かう先に立っている人にとって、鋭過ぎはしないかと。

その言葉を何年もその人が覚えていて、私という書き手がそうした言葉を使ったことを許してもらえるのだろうか、私はその責任を負えるのか、についても気になります。

そこで私はもう少しよい言葉はないだろうかと考えます。インパクトはあるけれども毒はない、少し柔らかいけれども疎外する人がなるべく少ない言葉を。

当然のことながら、そうした言葉は衝撃という意味では甘くなりますし、おそらくアクセスランキングではあまり上位はとれないでしょう。

しかし十年ほどたったころに、「あの記事は心に残っています」と言ってもらえるのは、こうした見えない部分で言葉の鋭さをやわらげ、ゼロにはならないまでもなるべく誤射で傷つく人がいないように気を使った記事でもあるのです。

一時のインパクトを求めなかった代わりに、射程の長い記事を書くことに成功したことになります。

言葉で木を植えてゆく

そこで、冒頭の話題になります。たとえばアクセスを稼ぐという面で正しいことは、長期的な読者を安心させるという目的を裏切ることもありますし、ある話題が刺さるように書きたいと思ったことが、年月を経て「あのときのあれはなかった」という具合に自分に舞い戻ってくることもあるのです。

これは書き手次第、状況次第、そのとき与えられているチャンスをどのようにものしたいのかという、多数の変数が絡んだ問題になります。

私はどちらかというと後者、十年後の自分が見ても受け入れることができる言葉で書くことが、長期的に文章を同じ名前で書くときに、言葉というデリケートな泉を涸らさないために大事だと思うタイプです。

ひょっとすると、飲み会が終わったあとで「あのときあんなことを言わなければよかった…」と布団の中で身もだえる性格のなせるものなのかもしれません。

言葉をフローで書いてタイムラインに捨ててゆくのではなく、ストックとして一本ずつ木を植えるつもりで書くスタンスだとおそらくこうした選択になりがちでしょう。その制限のなかでインパクトの大きな、負債にならない言葉を選ぼうと引き出しを探すことになります。

もちろんこれが絶対の正解というわけではなく、ひとはタイムラインを99日分しか遡らないだろうし気にしないという考えを軸足にしてむこう一週間刺さる言葉で話題を斬るのも選択です。

しかし言葉というものは意外な力をもっているものです。そして鋭くて厳しい言葉だけが傷を負わせるとも限りません。

いかに自分の毎日がうらやむべきもので、自分の選択が正しく、人はそれに一目を置くべきかという文章が表向きはどこにも毒がないようにみえても実はしたたるような悪意を感じさせるように、言葉は書かれた以上の本音を不可避にさらけ出してしまうものです。

逆に鋭くて厳しい言葉なのなかに、心配や愛情が溢れているケースだってあります。わたしたちはそれを選択できるのです。

ならば私は。

書くことをやめられない私は、せめて拙くも漏れてしまう自分の至らなさのうちにあっても、可能な限り言葉の刃を出さないように努力していたのだと、せめてわかっていただけるように目指したいと願うのです。

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。