ブロガーたちはどこにいったのか
いまではメジャーになったテキストのマークアップ形式 Markdown ですが、その生みの親であるブログ Daring Fireball の John Gruber (@gruber.foo)氏が先日、テックメディア Verge のポッドキャスト のゲストに出演していました。
この回では Markdown がどのようにして生まれたかについて、、最初はあまり反応がなかったものの、その後爆発的に利用が広がって、その結果として現在の生成 AI での利用に氏が戸惑っている顛末について話題になったのですが、ここで興味深いやりとりがありました。
SNS 以前の、ブロガーたちがさかんに記事を書いていた頃を思い返して、ゲストたちが「昔は投稿される情報がそもそも少なかったよね」と語り合っていたのです。
そうだったっけ? と 2000-2010年代のころを思い返してみると、たしかに、そんな気がしてきます。
その頃はSNSはおろか、YouTubeがいまほどではなかったのでメディアが私たちの主観時間をそこまで消費しませんでした。そもそもウェブに投稿されていた情報は少なかったのです。
主要なメディアやブログを RSS に登録して全部に目を通すようにしていても、たいていは表題程度ならば網羅できましたし、、重要なものを時間をかけて読むだけの余裕があったのです。
ウェブの会話が希薄になる
SNS がなかったのに、ブログを書いている人同士には、互いの存在を感じ取る空気感が存在していたのも覚えています。
ブログ記事が引用されたときに表示されるトラックバック機能やコメント機能のおかげでもありましたが、誰がどこで誰の記事の反応しているといったことは、なんとなく気づくことができました。
当時、私は名古屋でこのブログを集中的に書いていたのですが、ブログ勉強会なるものに招待されて東京で登壇したときには、「最近急に現れたあいつか」という具合に聴衆が自分のことを知っていることに驚いたものでした。
その後、トラックバックはスパムばかりになって消えましたが、その代わりに SNS が誕生したことでウェブになにかを書いている人同士の会話はむしろ楽になりました。
ただし、こうした牧歌的な環境はいまは失われています。
一見すると仕組み自体はいまも存在するのですが、ウェブ上の会話や心の通ったやりとりはむしろ減ってきたような気がするのです。
完全になくなったとは言いませんが(はてなとか、note の一部の界隈ではまだまだ盛んですよね)、ブログがブログを引用して対話的に思考される記事は珍しくなりました。
私自身、更新頻度はだいぶ減ったのでこれは自分のことでもあるのですが、記事の視点を通した対話や新しい出会いがほとんどなくなったことを前提として、時折つぶやいてしまうのです。
ブロガーたちはどこにいったのだろう?、と。
ダイレクトなつながりがアルゴリズムにハイジャックされる
先日、Noah Smith 氏のブログでも同じような話題が登場していたので興味深く読んでいました。
この記事の骨子は:
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論理的な対話よりも党派性を前提とした情報のやりとりが増えてしまい、読者が記事を読んでその視点について深く考える習慣が失われている
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アルゴリズムの発達で読者とのダイレクトなやりとりが困難になったこともあって Substack などの有料課金の壁の向こうにコンテンツが隠れてしまい、書き手同士の対話のハードルが上がる
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生成AIによってある程度のクオリティの記事が読み手の可処分時間を飽和させつつあるため、人間の書き手が相対的に不利になる
といった話題で、これだけで何時間でも議論ができると思うのですが、ここで触れたいのは 2 のポイントです。
いまでも X に変貌した Twitter は存在しますし、リプライを送れば相手はには伝わるのでなんとなく「つながりは失われていない」という錯覚に陥るのですが、実情はもっとシニカルだと思うのです。
書き手と読み手がつながっているということは、フォロー関係を通して書き手の書いた文章が相手に届いている状態です。かつてはトラックバックが、RSS が、そして数年前までは Twitter もこの力が強固でした。互いの「書きたい」「読みたい」「興味ある」というつながりがこのネットワークの強さを担保していたといってもいいかもしれません。
現在は、こちらの模式図に近い状態になります。書き手と読み手のフォロー関係は維持されていますし、タイムラインはいつも通り SNS の画面上で流れているのですが、中身は簒奪されているのです。
まず、「おすすめ欄」はフォロー関係を通した情報のやりとりを不確実にします。単に投稿量が多すぎるというせいもありますが、間引きも多いためにフォローしている人の投稿の多くが目に入らないことが増えてきます。
この「おすすめ」を支配しているのはアルゴリズムで、たしかにそれまで知らなかった書き手との出会いを誘発する面もある一方で、実際には優先して広告主や、炎上していたり強い意見でエンゲージメントを誘う投稿や、そもそも無関係だけれどもプラットホームには都合のよい投稿へと誘導されてしまいます。
大事なポイントとして、アルゴリズムによるおすすめは 多様性を増やす方向には進まない という点です。それはどうしても「人気があるもの」へと重み付けされてしまい、誰もが「人気があるから人気のある投稿を見ている」という多様性の薄くなった平均状態へと進みます。
見た目のタイムラインもフォローの仕組みもそのままに、中身はもう違うものにすげかわっているといってもいいのです。Cory Doctorow (@pluralistic) のいうところの Enshittification の最終段階が近づいているわけです。
希薄でもダイレクトな関係を再構築する
この状態についてどうしたらいいのかとか、なにか解決方法が私のなかにあるわけではありません。しかし、最近考えていることがいくつかあります。
情報量よりも視点のあるもの追う
読み手として、多くの記事をほとんど読まずに飛ばしてしまうくらいなら、限られた、かならず読みたい書き手のブログを最優先に配置したいと思っています。そうしたブログはなにか強い意見で注目を集めるのではなく、すでに人気がでている話題に「人気があります」と追従を付け加えることでアルゴリズムの分け前を狙うのでもない、視点や批評を旨とする少数のものに限られます。
RSS リーダーのフォルダもこうしたものが最上位に配置されるようになりました。
薄まりやすい価値ではなく、批評を追求する
これは書き手としての話で説明しにくいのですが、たとえば Apple が新製品を発表したときに「Appleが新製品を発表しました」と書くのは、いかにそれが注目を集めていて、そうした意味では価値のある情報だったとしても、薄まった希薄な情報強度しかもっていません。
むしろ同じニュースをみても「自分はこの視点で評価する」と批評感のある言葉を目指したほうが、代替不能でむしろ結果的には真意が伝わりやすくなります。誤解も増えるとは思いますが(この記事のように)。
記憶できる数のつながりへ
私はいま VRChat で「VRChat ブッククラブ」というイベントを隔週程度の頻度で開催しているのですが、せいぜい5-6人程度の参加者にとどまっているおかげでむしろ誰かとつながっているという満足度は大きくなっています。
情報発信は常にスケールを超えてゆくもので制御が難しいのですが、それでもリプを送ってくださる人はたいていは数人であることを思い出して、そこに意識を向けておくわけです。
このような、希薄でもダイレクトであるようなやりとりを誘導できるように注意するわけです。
ブログの時代はもう戻らないけれども
これはなにも、ブログの時代よもう一度、などと考えているわけではありません。ブログはこれからもずっと「死に続ける」でしょうし、それ自体は時代の流れとしてしかたのないことです。
どちらかといえば、これは自分にとってアルゴリズムの介入を受けずに制御できる情報のアウトレットがブログしかないという事情に起因しています。そしてどうしても拡散する段階では SNS を利用しないわけにはいかないというジレンマもありますので、このアルゴリズムと対峙するための戦線を自分のブログに敷いたということに対応しています。
しかしそうした制限のなかでも、書き手と読み手のか細い関係を維持しようとすることが、画面の先にいるのが生身の人間なのかAIなのかがわからない状態から救うに値するものをいくばくなりとも取り戻すきっかけになると思うのです。
結論らしい結論はありませんが、これからも繰り返しこの話題には触れたいと思います(上の 1 と 3についても大事ですね)。
このブログは静的サイトに移行したのでコメント欄も維持していませんが、もしなにか質問があるようならぜひお寄せいただければと思います。
私は、しばらくはここにいますので。
